自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


悟りをひらいて

どこか優越感を得たいと思っているんじゃないのか?

自分は悟りを開いてエライんだぞ!

ジャーン!

葵の御紋、的な。

 

と思ったらムネヤケがした。

 

人間て、どこかそんなところがあるような。

しょうがないのかな。

そういうもんなのか。遺伝子とかで。

だったとしても、ちょっと鼻白む。

 

でも、ぼんやりし続けているのもなんだか。

自動的に生きようとしているが、

やはり何かどこかで優越感を得たい自分を見つけて、げっ、となる。

 

人間だからね、やっぱり、完全には悟れないわけだから。

完全に悟れたら神だし。

人間はそれぞれ、いろんな方向からみている。

誰かも言っていたなあ。

同じものを見ているんだけど、

それぞれ方向が違うから

同じものをみているのに人によって全然違うものに見えるって。

 

だから、方向が違うだけで、

自分が見ている形が一番正しくて、偉くて、完全な見方なんだというのは違う。

それを人におしつけようとするのも違う。

誰かの見方を見下したり、うらやましがったりするのも違う。

ただ、自分の見方で見えているだけ。それだけ。

 

 

 

 

 

 

苦労をしにきてるの?

最近読んだ本に、この世には苦労をしたくて来ているというのがあった。

あの世はなんでも叶ってしまって、つまらないそうだ。

ほかにも、そんな記述をみたことがある。

 

なんだって、そんなことをしに!

と自分に腹が立ちそうだ。

 

いいじゃないか、なんでも叶った方が!

苦労してなにが面白い!?

 

はあ。

 

なんできちゃったんだよ。自分。

ああ、苦労したかったのか。。はあ。

 

だから苦労しとけ、と。

いうわけかああ。

つか、どの苦労したかった?

 

ダンナが口うるさいのをがまんする苦労をしに来ているのか?

ちっとも勉強するスイッチがはいらない子供にいらっとする苦労をしにきているのか?

PTAで自分に不利な活動をしなくていいように画策する主婦にきれそうになる苦労をしにきているのか?

家事?

 

じゃあさあ、なんで生きているとか考えるのも

本当に意味ないね。

だって苦労するために生きてるんだものね。

ああ、そんなのいやあああ〜〜

もう、本当いやになっちゃう。

吐きそう。

 

自分と対話したら何の苦労したいのか

わかるのかもしれない。

 

拭きの快感

昔は拭き掃除が嫌いだった。

拭いてもまた汚くなってしまうから。

無意味だと思っていた。

なるべく拭き掃除をしなくていいように工夫していたくらいだ。

 

今もそんなに特別好きとかいうことはないが、

掃除は結局拭くことにかぎるんではないかと思っている。

 

以前読んだ玄侑宗久氏の「観音力」にもあった。

庭の落ち葉などを掃いたりすることを

「キリがなければないほどいいんです。」

とお書きになっていて、

「おお!なるほど、それがいいのか!」

と思った。

 

拭いてもまた汚くなるから、やらない、やりたくない、

んではなくて、

また汚くなり、キリがなくてもそれをやることがいいんだと。

そう思えるとなんだか前向きに拭きたくなる。

 

年々、拭く事が重要だと気づいてはいたが、

「それがいい」のだとは思っていなかったので画期的な考え方だった。

 

「キリがないほどいい」ことは毎日の行動の中にたくさんある。

食事を作ること、掃除、洗濯、髪や身体のお手入れ。。

 

毎回面倒だけれど、それがいいんだと思えば前向きになれる。

 

先日、前向きにキッチンの天板を拭いていたときのこと。

小さな汚れがたくさんついている場所を拭いていたら

フキンを通し、汚れがプチプチプチととれていく様子が手の平に伝わった。

その時、なんともいえない快感がはしった。

こんな感覚は初めてで、

うわあ〜〜と思い

しばらく汚れのあるところを拭きまくり

その快感を楽しんだ。

 

前向きにやっているとこんなご褒美があるのね。

としみじみ思うのだった。

 

意味ないのかもね

ふと、思った。

どうして何にでも、意味を考えてしまうのか。

生まれてきた意味、生きている意味、出会った意味、

人生の意味・・・

よく考えたら、そんなのあるのか?と。

 

もしかしたら、この世は何かにつくられていて、

自分も、ひょいっと現れていて、またはつくられて、

生きているんだか、生かされているんだか、

わからないけど、

そういう風なしくみだったとしたら、

あんまり自分には意味がない。

つくっている誰かには意味があるんだろうけど、

そうだったらますます関係ない。

 

意味ないんだったら、はちゃめちゃやればいいじゃん!

って思うけど、実際できない。

何か操られてるような。

良心かもしれないし、プログラムかもしれないし。

 

壮大な演劇みたいだ。

役割が与えられている。

だけど、自分が演じているなんてわかってない。

だから、役でやっていることに

はまりきってしまって、

悩んだり、考えたりしてしまっている。

でも、役をおりたら何か本当の自分に戻るというんじゃなくて

おりるもなにも何もない。

もう役をやるしかない、ような。

 

そんな気がしている。

 

だったら、しょうがない。

どこかで監督している誰か、いるか知らないけど

その通りに動くしかないのか。

そんなの自由がない!とか言って

役ではないことをしようとしても

それも決まっていたとか。

自由とか、不自由とかそういうのもまったくなく、

例えば、週一の習い事みたいに、

その曜日になったら行く。

という感じ、

だとか、決まっているから、そうする、

自分がいるから演じる、

という風なのかもしれない。

 

最近とてもよく感じる。

すごいお金持ちの人、そうでない人、

きれいな人、そうでない人、

大きい人、小さい人、

様々な人がいる。

平等なのは1日24時間があり(これもどうなのかな、本当のところ)、

必ず死ぬってことぐらい。

これって、それぞれ役をあたえられているよなあ、と思う。

 

自分は自分の役目をやるしかなくて、

それの意味なんて考えたってたいしたこと思いつく事なんかないってわけ。

悲観じゃなくて。

人生とか、出会いとか、死とか、

それについて意味を考える事自体、意味ないのかもねえ。

 

 

宇津木式美容で1ヶ月

先月から宇津木式美容法をやっている。

 

とにかく肌をこすらない、朝夜の洗顔は基本ぬるま湯か水。

化粧水、クリームはぬらない。

できればファンデーションも。

塗るならパウダーの優しいファンデ。

塗った日は、石けんの泡で落とす。

ということで、完全に守ってはいないけど。

今まで手作りの尿素化粧水を使用していたが、

それをやめてみた。

化粧水後のスクワランオイルも塗ってない。

ああ、買いだめしていたんだった。。

まあいいや。

 

化粧品はほぼ手作りなので、

肌に優しくしていると思っていたが、

数日たつと、顔がなにやら全体的に白くなってきた。

シミがあり、鼻が赤くなりやすいので、どうしてもファンデをつけないと

外に出られなかったのだが、

しばらくすると、アイメイクとリップだけで

外に出られるようになった。

鼻はお酒をあまり飲まないようになったからかもしれないけど。

酔っぱらいの人形なんかは鼻が赤いものね。

 

そして、ビタミンC誘導体をとかした水を塗るのも

しばらくやめたが、シミは濃くならず、

なんか、目立たなくなってきた。

ほぼ一ヶ月経ち、ビタミンCは数回塗ったけれども、

毎日塗っていた時とそう変わらないみたいだ。

いや、ファンデをぬってかくしていたときよりも目立たないかも。

 

そして、鼻の毛穴が確実に縮んでいる。

これはうれしい。

 

お出かけするときは手作りパウダーファンデーションをはたく。

アイメイクとリップで完璧。

もう少しちゃんとするときはチークもするけど、ほとんどしない。

驚いたのは、しばらく経っても化粧直しが必要ないということ。

薄いから、はがれてもあんまり分からないということかもしれない。

鼻のテカリもほとんどない。本に書いてあった通りだ。

いやあ、本当に驚いた。

 

なんて楽なんでしょう!

しかも肌がやわらかくきれいになっていく。

ありがたい。

夫に

しわが減った。若くなった。

と言われた。でへ。

 

しばらくつづけてみることにする。

ただ、コルギをしていいものかどうか。

肌をぐいぐいやるから、今控えているが、

フェイスラインがたるんでいるんじゃないかとちょっと心配。

今自撮りしてみた。

やっぱコルギしてた時の方が、目鼻立ちがはっきりしていたかも><;;

肌をとるか、顔立ちをとるか・・・

ああ、ジレンマ。

とりあえずこすらず押してやってみようと思う。

 

期待しない日々

「期待しない教」の毎日を過ごしている。

とはいっても、未来に悲観しているという訳ではなく、

願望はオッケーということにしている。

ただ、それを期待しないでいる。

 

例えば、初めて料理を作ってみたとして、

「初めて作った料理を家族がおいしいと言ってほしいなあ」

というのは願望だからオッケーで、

「初めて作ったんだし、これはもう家族がおいしいと言うはずだ!

言うに違いない!いや言って!当然言ってくれるよね?!」

というのは期待なので、しない。

 

願望であれば、家族がおいしいと言わなくても

「そっか〜ふうん、言わないんだ〜」

と事実に対してそう思うのみで、心は安らか。

でも、期待マンマンな場合だと、

「えっ?おいしいって言わないの?何でどうして?うそでしょう?

初めて頑張って作ったのに?どういうこと?ひどい!

そういえばこの前だって・・・」

なんてことになり苦しむことになる。

 

そういう違いがあるのかな。と思うので。

 

願望とは、相手の行動に対し、自分の都合を押しつけないこと。

期待とは相手の行動に対し、自分の都合を押しつけること。

 

似ているようで全然違う。

 

自分の都合通りにいけばいいんだろうけど

都合通りにいかない時に苦しみが起きる。

だから、期待をしない教。

心安らか。

よろしかったらどうぞ^^←願望。

 

 

 

 

 

期待しない教

先日「期待しないこと」を書いたが、

とても有効な気がしたので、

私は実践してみた。

 

前から歩いてくる人がよけてくれる、ということを期待しない。

挨拶をしたら挨拶を返してくれる、ということを期待しない。

夫が話をちゃんと聞いてくれる、ということを期待しない。

子供が自ら勉強にとりかかる、ということを期待しない。

自分が作った自然の酵母でパンがうまくふくらむ、ということを期待しない。

レジの人が感じよくニッコリしてくれる、ということを期待しない。

ヘアスタイルが完璧にきまる、ということを期待しない。

すぐに美肌効果があらわれる、ということを期待しない。

いつか悟るんだ、ということを期待しない。

いつか自分がすごくなるに違いない、ということを期待しない。

たくさん本を読んだら悟りに近づくに違いない、ということを期待しない。

面倒なことはおこらないに違いない、ということを期待しない。

 

ああ。

期待しないことがこんなに心安らぐとは。

 

期待するから苦しくなるのではないか?

 

だって、好きな人が優しくしてくれるものだと期待し、

優しくしてくれないとがっかりして悲しくなる。

であれば、期待しないようにすればいい。

はじめから期待もなにもしない状態であれば

好きな人が優しくしてくれなくても、

そういうものかとそのままを受け取り、

がっかりして悲しくなることはないのである。

 

これは、今、ここ、そのままとか、

仏教の執着しないとかに似ている、いや同じかもしれないが、

もっと理解や実践が簡単なんではないかと思う。

 

たいへんこの単純なしくみに気づき私は嬉しくなった。

これから「期待しない教」としてひそかに実践していこうと考えた。