自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


そうだ、頑張るんだった

ある有名な方の本を読んで、

あ、そうだ、頑張るんだった。

と思い出した。

 

最近、自ら頑張ろうみたいなことがなく、

目の前のことをただ真剣にやることを

していたので。

 

いや、同じことなのかな?

いや、違うな。

 

自分を見つめて、進みたい方向へ

貪欲に進んでいく、というような、

そういう態度、この世で必要だと分かっている。

 

若い人へ向けてのメッセージだったのかもしれないけど、

ああ、そういう態度、あったんだったな、と思い出した。

 

もう、わからなくなっている自分に気づいた。

それってどうなんだろうか、でも、

いいんじゃないかな。

 

ただ、ひたすらドアを叩き続けることは大事かもしれない。

不思議なおじさんに中毒と注意された

ファミリー銭湯でお湯につかり眠るでもなく目をつぶって、

例のハートの聖なる空間へ入る前のユニティブレスをやってみた。

 

もう一度断っておくが、ただの妄想かもしれないし、

私が少しおかしいのかもしれない。

ただ、そういう風に見えたというだけなのでなんの証拠も確証もない。

けれど、私の中では何か確かなように感じる。

 

 

慣れているのですぐにいつもの状態に入れた。

でも、ハートへはなんかもうちょっと入りづらくて、

それだけを味わっていた。

 

ちょっと前よりも虹色がくすんでいるかな、とか

思っていたら。

 

いつの間にか、おじさんがそこにいた。

(実際にじゃなくて、瞑想の中で^^;)

 

日本人のちょっとミュージシャンくずれな雰囲気の

肩まで髪の毛を伸ばした中年太りのおじさんといった風貌で、

昔のギリシャ人みたいなアンバランスな服装をしていた。

 

えっ?と思い、あれ、ミカエル様ではないな、とすぐに分かった。

えっとどちら様でしょうか?といつものように

意識で聞いてみた。

 

ミカエル様でないことは確かだけれど、

誰かは教えてくれない。

 

どうしてそんな姿なんですか?と聞いたら

美少年の天使みたいな姿になって、

「こんなんだと話聞かないよね?」

と言うので、確かにうっとりして話きかないな、と思った。

 

宇宙人とかですか?と聞いたら、

まあ、そんなところ、と。

 

何で出てきたのかというと

他の人を中毒扱いしているが、私が中毒だというのだ。

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ファミリー銭湯に来る途中、夫に

スマホはね、スロットマシンと同じように中毒になるように

プログラミングされてるんだってよー。怖いよねー。

ほら、あの人自転車に乗ってまでやってる」

とか、昼間ウェブで見た情報を受け売りしていた。

 

私は最近平行世界にハマっており、

時間があればウェブで平行世界に行ったとか、

そういう掲示板を見続けていた。

 

ああ、そうか、と思った。

私に中毒だと気づかせようとして

いろいろやってたのに、他人事にしてちっとも

私が気づかないからたまらず出てきたのかな、と。

 

ああ、そうでした。と素直に思った。

その後、あの虹色のガラスの場所に行ったのだが、

少しおじさんはスリムになっていて、

あれ?と思っていたら、次元が変わったからだと説明した。

 

と、ここまでしかよく覚えていない。

中毒気味ではあったが、わざわざ出てきて注意してくれるとは

どういう存在なんだろう。

 

あ、それと、私が人生は意味がない、と考えていることについても

「意味がない、ということは意味があるということ」

らしい。ないのはあるの裏返し。両方がある。

 

平行世界はたくさんある線が束になって丸くなる。

次元が変わるとそれも変わる、んだそうだ。

 

うん、よくわからない。

まあいいや。

 

新しい登場人物のお話はこれでおしまい。

インターネットの海で

知りたいことをインターネットで調べる。

すぐに見つかる。とっても便利。

 

だけど、見つからないものがある。

情報はたくさんあるのに、欲しい情報が見つからない。

 

そのうち、だんだん、自分が何を探そうとしているのか

分からなくなる。

本当にインターネットの中に答えがあるんだろうか。

 

答えでなくてもきっかけでもいい。

だけどいらない情報ばかり。

 

そんなことを数時間もかけて調べ、

インターネットの海で呆然としている。

 

青い鳥を探しているみたい。

必死に生きている人を見て

テレビで必死に生きてる人を見た。

自分も必死に生きなくてはと思った。

 

だけど、その人の必死と自分の必死は違う。

私も必死に生きているといえば必死であるし。

 

それぞれ必死なんだけれど、

それが社会的に必死に見えるかどうかで

目立つかそうでないか、っていうだけなのかもしれない。

 

子どもはこのまま遅刻し続ければ来年度進級が危ないと

面談で言われた。

 

子どもは必死なんだろうけれど、よくわからない。

わからないけれど、子どもは必死なのかもしれない。

ゲームには必死だとわかる。

 

私も夫も必死で朝子どもを起こす。

必死でどうしたら遅刻しないで学校にいけるか考える。

ため息をつきながら。

 

どうしようもないこともあるのかもしれないけれど、

とりあえず必死にやってみるしかない。

 

どんな結果だろうとも、あきらめる訳にはいかない。

やるだけやる。

 

そんなこともあってか、またしても現実が遠い。

人生劇場で必死に演じるけれど、

そこになじめていない。

何者でも意味もないからこそ

自分は何者でもなく、人生に何の意味もない、と分かったが、

じゃあ、ヤケになって、あるいは、ぼんやりして過ごそうとは思わない。

 

何者でもなく、意味もない人生というテーマパークで

いろいろな感情というものすごい数のアトラクションを

体験できるのだから。

 

ヤケになったり、ぼんやりしていたらもったいない。

どんどんアトラクションを楽しみたい。

 

なんとかランドが嫌いでも、なんとかランドに連れていかれたら

そこでぼんやりしている場合ではない。楽しむのだ。

元がとれないじゃないか。

 

とりあえず、人生テーマパークでは

すぐ近くのアトラクションを楽しめることになっているようだ。

 

毎日の目の前のことをひたすらやることでそれを楽しめることになる。

一般に楽しいとか嬉しいとか、心地良い感じだけでなく、

苦しい辛い、心地よくない感じのもあるが、

 

それはぐるまぜで選べない。

いや、どこかで自分で選んでるのかもしれない。

 

いいとかわるいとかの区別なく

それを自分の中身が楽しんでいる。

 

自分を楽しませるために私は今日、今、やることを

ひたすらやるのみだ。

 

今はこれをひたすら書く。

さっきはテーブルをひたすら拭いた。

昨日はPTAの活動をひたすらやった。

 

建設現場で作業する人がひたすら作業している。

散歩する人がひたすら歩いている。

話をしている人たちがひたすら話している。

 

それぞれのアトラクションをそれぞれ楽しんでいる。

 

寝る時は、ひたすら寝ればいいのだし、

時に怠けたければひたすら怠ければいい。

毎瞬、必ず人生劇場においてやることがあって、それをやることなのだ。

 

アトラクションは数限りなく、次々現れる。

 

それが今を生きるということなんだと思うし、

実際そうすることしかできない、と思う。

イヤな感情を味わう

本日はまたイヤな感情と出会った。

ああ、これ、よく出会ってたね。

 

自分が正しいと思ってしたことを完全否定されるという。

そして、何故否定されたのかわからないっていう。

 

だから相手のことを疑い、嫌悪し、

どうしてわからないんだ?と毒づいて、

気持ち悪くなる。

 

なんて刺激的な感情なんだろう。

この、胸が悪くなる感じ。

 

周りがキューっと縮んでいくような、

耳がキーンとなるような。

 

ああ、私はそんないつもとは違う感情を味わっているのだ。

こんな気分はそう滅多にない。

なろうと思ってもなれるもんじゃない。

 

そう考えるとお化け屋敷のお化け役の人に

感謝するような気持ちになる。

 

わざわざ私をこんなに胸くそ悪くさせてくれて。

感謝だなあ。ふふふ。

日常が刺激的

初めはたどたどしくても、何度かやるうちに慣れて、

まるで、ずっとそれをやっているかのようになる。

 

なんでもそう。

仕事でも習い事でも

子育てでも、なんでも。

 

慣れるとそれをやるのが普通になってくる。

 

人生劇場の自分の役もそうなのだ。

まるで普通に自分だという風を演じている。

 

自分は何者でもないのに、

その時に与えられた役をやっている。

 

私は今は妻で母で、時々仕事をしている。

それを毎日演じている。

演じているとはわからないくらい自然に。

 

ある日、昼寝から覚めた時、一瞬自分が何者か分からなかった。

次の瞬間、「ああ、私は○○のお母さんで、…」と自分の状態を認識した。

 

その時、自分は何者でもないと思った。

 

だから時々現実に触れていないような気持ちになるんだろう。

 

人の話を聞くとき、映画でも見ているような

気持ちになる。

 

家族7人の晩ご飯の支度を1人で2時間かけてやるだとか、

遠くの整骨院まで行って治療をするだとか、

大人になってから注射を打ったことがないだとか、

一人で京都旅行へ行くだとか、

そんな、自分が演じない話を聞くのは面白い。

 

そして、そういうことが刺激的に感じる。

その人には日常なのだろうけど、私には刺激的である。

 

いろんな人が毎日それぞれ刺激的な役目を演じている。

面白い。