自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


信じていたらいい

だいぶお久しぶりです。こんにちは^^

 

さて、前回息子の受験の件で、「信じよ」とのお告げ的なものを受け、
もう完全に受験のことは息子に任せていた。

 

まず、AO受験、何校か受けたがダメ。
共通テストは学校で受けなくてはならないので受ける。
共通テストの結果で合否がわかる大学を何校か選択し、受けるもダメ。

 

ここまでくると信じようと思っていても親の方にも焦りが出る訳で。
2月のAO受験でどこか入れるだろうと思っているのか、
こちらの焦りにはおかまいなくゲームばかりやっている様子。
もうさすがに一般受験してみたらどうかとすすめる。

 

少しは受験勉強というものをしてもらいたいのもあった。
2校受けた。
少しは勉強したようであった。

 

1校は以前行きたいと言っていた学校で、その時はもうそれほどでもない様子だったが、もしかしたらという思いですすめて受けさせた。結果、ダメ。

 

もう1校は、レベルギリギリでどうにかなるかもしれないというところ。
一般受験と共通テスト利用試験両方受けた。

 

合否発表の前に担任の先生から急に連絡が入り、
指定校推薦がもらえそうだとのこと。
初めて聞く学校だったが、なんとなく良さそうな感じであったので、
お願いした。

 

その後なんと、レベルギリギリの学校で、共通テスト利用の方は不合格だったが、
一般受験の方が合格した!息子も驚いていた様子。
しかし、指定校推薦の学校の方へ行かねばならない。

 

卒業式はまだ指定校推薦の合否が出ていないまま出席となった。

 

その後無事合格発表があり、無事に大学生となった。
さらにその後、一般受験し合格した大学の共通テスト利用試験の方も繰り上げ合格の知らせが届いた。

 

結局、信じていながらも(いや、少し信じてなかったかも)
うるさいことを言ってしまったわけだが、
落ち着くところに落ち着いたという感じだ。

 

高校の時は朝起きられず、大変な思いをしたが、
今はだいたい起きられるようになっている。
大学が楽しいと言って、通っている。

 

やはり、高校が辛すぎたのだと思った。
薬なんかじゃ治るわけないと思っていたが、やはりそうだった。

 

必死に頑張りすぎ、それも限界になり、
体を起きさせないことで高校へ行くことを避けるというような
バランスをとっていたということではないかと思う。

 

そこまで私たちも追い詰めてしまったかもしれない。
今になって考えると、初めて「他の学校へ行きたい」と言った夏に
すぐに転校すればよかったのかもしれないと思う。

 

そこで私は受験のこともあり、もうちょっと頑張ってみるようすすめたのだった。
おそらく、息子はもうその時点で限界を感じていたのだと思う。
悪いことをした。

 

でも息子は何とかそれから頑張った。すごいと思う。
調子がいいようだが今後の自信となってくれることを祈るばかりだ。
あとはコロナで学校が休校になったのもかなり助かった。

思いがけなく指定校推薦をもらえたり、
本当にありがたいことが重なって、今日の日がある。

息子はもう自分でちゃんと考えて、行動できる。
信じていればいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信じよ

あけましておめでとうございます^^

今年もよろしくお願いいたします。

 

先日のおばさんとようやくふつうに話せるようになったと思ったら、

また私がミスをしてしまい、またしても意地悪な言い方で注意されることとなって、

一年を終えた><;;

 

何故だろう、その人と組むと大きなミスをしてしまう。

これは学びなのだろうか。不思議だ。

 

しかし、おばさんも前回言い過ぎたと思ったのだろうか、

以前よりはマイルドな意地悪になっていた。

ミスをしないことがこれを回避する手段であることがようくわかった年末であった。

 

慎重に、丁寧に仕事をしなくてはいけないな、と一連のできごとから学んだ。

 

さて、それはおいといて、

今度はまた違う問題勃発である。

 

息子の受験である。

 

受験生とは思えない、高校受験の時を彷彿とさせる。

見るとゲームばかり。

 

さすがにこの時期は必死に勉強するのだろうと思っていたが、

やらないのでこちらも焦る。

 

焦るとよくないとわかっていても注意したり、怒ったりしてしまう。

もう、高校生である。そんなことはわかっているはずだ。

余計によくないとこちらもわかっていながら、イライラして怒ってしまう。

 

そこで。

以前によくハートの探索に行っていたが、

それをしてみようと思いついた。

 毎回、ユニティブレスは感動的。

もう、あの透明な壁のところには行かず、ハートの部屋を目指した。

 

行けたのかはわからないけれど、声だけの誰かと話をした。

 

私が山の上から見下ろす映像、そして、

「大人(私)はもうすでに山に登って、高いところから子供を見ている。しかし、子供(息子)はまさに登っている途中で、俯瞰などできない。登る途中の木の枝だとか目に入るものしか見ることができない。しかし、それは大事なこと。それでも登っているのだから信じよ」

という感じの話であった。

 

そうだな、私だって、そうだった。

そう思い、その助言を受けて私は黙って見守ることにした。

子供は一生懸命登っているのだ。

ドラマでしか見たことがない人

仕事でミスをした。

60歳のおばさまがすごくつっかかってきた。

 

その人が後処理をしてくださったので、感謝しているのだが、

何度か重なったので、憤慨しているのか、

もともとそういう人なのか、モノの言い方がものすごく意地悪。

 

そんな人ドラマでしか見たことがなかったので、本当に驚いた。

あ、いや、1人いた。中学生の時のテニス部の先輩に。

なんでだろう。そんな言い方されると嫌になってしまう。

こちらが協力しようと声をかけても、ヒステリックに拒否されるし。

わざとこちらを拒否するためにそういう態度や言い方をしているのかな、

と思ってしまう。

 

先日書いた人もつっかかってきていたけれど、気にしなくなったら

普通になっている。

こちらの捉え方なのだろうか。

 

適当に合わせながら、放っておこう。

なんでもいいじゃないと思う

少し前は私につっかかってくる人のことを気にして嫌な思いをしていたけれど

もう、好きにすればいいじゃないの。と思う。

 

この人にこうした方がいいのかな、とか忖度しないでいいじゃない、と思っている。

前はもっと自由だったのに。

働き出してからなんか、自分で何か変な形に押し込めているみたい。

 

でももう自由でいいんだと思える。

暑いせいなのか、なんていうか、面倒くさいやり方、っていうのか、

どうでもいいことを大きく取り上げて、さも重大そうに扱うっていうのか、

そういうのもうお腹いっぱいな感じになっている。

 

そして、最近すごくシンクロが増えているし、

望んだ事がすぐに叶う気がする。

 

他の人にとってはたいした望みじゃないけど、

それがすごく自分に大切なことで、

強く思ったりするとそれが与えられるというような。

 

コロナ前、子供が朝起きられなくて、いろいろ対策しても

クラスの先生は煽ってくるし、

もう私は精神がギリギリの状態だった。

 

コロナが拡がり、休校、今も、遅刻や欠席はカウントされない状態になっている。

コロナは恐ろしいものなのだと思うが、私たちはコロナの流行に救われたのである。

あのまま普通に時が流れていたら、おそらく転校ということになっていただろう。

 

その他先日のピアノの件でも、一瞬、調律師の人このままでいいのかなと

例の傷の件の前に少し思っていたのだった。

それはすぐに叶えられて次回からは丁寧な対応の方に変わることになった。

 

なんていうか、底の部分から湧く望みが叶っているような気がする。

 

何かもう、そういうのが多くて、

世の中の次元が変わってきているんじゃないかとさえ思ってしまう。

 

しかし、子供の受験志望校に関してこちらの望みは叶う感じがないようだ。。

いや、まだわからないかな??

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またもやおかしな感覚が

なんなんだろうか。

 

先日のピアノの傷ショックは和らいだけれども、

最近自分が少し自分から浮いているように感じる。

 

自分は自分の体にいるんだけれど、

それとは別の意識が少し離れているような、

そんな変な感覚。

 

だからといって別に生活で困ることもないけれども。

ピントが合っていない、二重になっているものを見るような、

そういう感じ。

 

別にいいんだけれど。

ピアノも私も傷ついた

先日調律してもらった後に

ピアノが傷ついているのを発見してしまった。

 

鍵盤の左の板に何かの衝撃でできたような傷。

驚いたので、調律した人に電話をかけたが、

 

気づかなかった。記憶にない。見ないとわからない。

これから次の調律があるから、今日は行けない。次にそちら方面へ行った時でいいか。

 

などと言う。

ただでさえショックを受けているというのに。

 

小さい傷だが、大切に使っているので傷があるとすごく目立つ。

結構深いので相当な力が加わらないとできないはずだ。

それを気づかなかったなんて、信じられない。

 

早く直してもらいたかったので、会社の方へ電話すると別の人が対応してくれるという。

別の人はおそらく傷つけた人の半分位の歳だと思うが

その人が謝り、

数日後、丁寧に傷を直し、ピアノをきれいに磨き上げていってくれた。

 

しかし

傷つけた方の人からは何も連絡がない。

 

何度か調律してもらい信頼していただけにショックが大きく、

今も少し引きずっている。

 

どうでもいいことだから連絡がないのか、

もう終わったことだから連絡がないのか、

やった覚えがないから連絡がないのか、

わからないけれど。

 

音だけ良くすればあとはなんでもいいのか、疑問。

私にはよくわからない世界でその人は生きているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

誰かのために自分を変える

仕事でミスをしてもそれほど致命的でない場合は
どうでもいいと思っていたが、
それをどうでもいいと思えない人がいて、


更には、そういうミスを頻発すると
まるで自分がそういうミスをしたかのような気持ちになる人がいて、

 

その人は先輩だけれども、
そういうミスを重ねていたら信頼を得られにくくなるよと言う。
その人は自分の体験と重ね合わせて、
涙するのだった。

 

私のしたミスが他の人の嫌な気持ちを思い起こさせるとわかり、
驚いた。

 

全く大したことはないと思っていた私には衝撃でしかなかった。

別に自分がミスして、信頼を得られないのは自分の責任だからいいとして、
まあ、あんまり良くないけど、
他の人がそれを見て辛くなるようならば変えなければならないと感じた。

 

こんなことを言うと怒られるだろうが、
少しのミスはどうでもいいと今も思っている。
それよりも私にとって大切なのは
ミスばかり気にして小さくならないことだ。

 

赤ボールペンで書かなくてはダメだとか、
郵便物をこの時間に取りに行くんだとか、
ここに丸をつけ忘れてる、この前も言ったけどとか。

 

正直、どうでもいい。

 

だがしかし、その涙した人のためになるべく
ミスをしないようにしようと決めた。