自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


まあ、いいや

テスト期間が終わったら一週間休みたいと言って

子どもが今日学校に行った。

 

社会人か?そんな自由に。

と思ったが、本人なりに考えてのことなんだろう。

 

もう、いろいろと考えて、もういいや、

という風な感じになっている。

 

それは別に放棄しているわけではなく、

子どもなりに考えた結果なのだ、と思うようにしている。

 

合わない環境で疲弊して、大切なものを失ってしまうより、

軌道修正して違う環境を探した方がいいじゃないか、

と思うから。

 

根性とか、もういい。

そんなの、子どもにはなんの役にも立たないんだろう。

 

繊細さのわからない大人が根性論。

イヤになるよね。そりゃあ。

 

そういう人には何言ったって変わらないだろうし。

 

ステキな大人もたくさんいるけど、

そうでない大人と三年間関わるのはつらいな。

 

まあ、いいや、もう自分でいろいろ考えられる位

大きくなったのだから。

学校行きたくない、その後

子どもが学校へ行きたくないと言って

前回書いてから間もなく

朝、遅刻しそうになって、子どもがずっと泣いていたので

夫が「泣く程なら休め」と言い、

休ませた。

 

ああ、いよいよ不登校になるか、と思ったが

部活の先生がいいタイミングで電話をくれたので

翌日は行くことができた。

 

子どもは頑張っている。

時には休ませてもいいのかもしれない。

 

休んだのはその1日だけであとは登校している。

 

学校の環境に耐えられる子もいれば

耐えられない子もいる。

 

今はもう昔ではないので

画一的な根性よりも

その子それぞれに合うがんばりでいく時代なのか、

という気がしている。

 

スポーツ界ではいろいろあるが、

子どもの部活でもいろいろあり、

感情よりも根性を求められる場面には少々辟易している。

直接求められている子どもであれば尚更であろうと思う。

 

三年間堪えられたらきっと強くなるだろうと思われるけれど、

堪えられるだろうか。

 

堪えて強くなるからいいとか、堪えられなくて弱いから悪いとかじゃない、

とにかく、自立できて世の中をなんとか渡っていければいいのだ。

それでいい、と思っている。

学校へ行きたくないと言い出した

子どもが高校に行きたくないと毎朝言っている。

部活、先輩が厳しすぎる、先生も理解してくれない、学校の体制もイヤ、

そんなことらしい。

 

毎朝つらそうにしているので

転入や編入も考えて調べたが、どうも、

 

今より偏差値が下の高校になるらしいこと、

新しい高校ではたして願い通りの楽しい生活が送れるかどうかなんて

わからないこと、

 

そんなことがわかった。

 

生きるか死ぬか、みたいな状態なら仕方ないが、

そこまでという感じもないように思える。

 

編入や転入をしたいなら自分で調べて

行きたい高校を選ぶようにと言ったが、

オンラインゲームばかりやっているので真剣ではないようだ。

 

これも、高校受験の際に

自分で高校を選ばせなかった私のせいかもしれない、

などと、反省した。

 

もしも、去年の今頃に戻れるなら、

子どもに自分で選ばせるだろう。

 

そして、滑り止めの高校は、

三年間ちゃんと通えそうなところを

選ばせるだろう。

 

部活を続けたいという子どもの言葉を信じて

厳しくやってくれるところを選んでしまった。

 

子どもはまさか滑り止め校に通うことになるとは

夢にも思わず、軽い気持ちで決定した。

 

どっちもどっちか。

 

転入、編入、するにしても

また同じように

「あの時やめなければよかったのに!」

 

などと言う事がないよう、今度は慎重に

対処した方がいいだろう。

 

まったく、子どもとは親の思うようには

ならないと肌で感じる今日この頃。

面倒なことはあるけれど

面倒なことを積極的にやるようにしてから

面倒な事が面倒という感じでなくなってきた。

ハードルが下がって、面倒な事に入りやすくなったというか。

 

「面倒」という感じが薄くなっているというか。

何か、とてつもなくジャマな感じだったものがいつの間にか

薄くなって消えかかっているというような。

 

面倒なことだという意識はあるけれど

昔のようにそれに対する感じが違っている。

 

それだからなんだということもないけれど、

面倒くさがりやの私がすこしそうではなくなっている。

 

少しずつ、変われるんだな、と思う。

 

とはいえ、全ての面倒なことが薄くなっているわけではないので

まだまだ積極的に関わろうと思う。

 

例えば、アルバイトでその時面倒と思ったことをやり、

自分がその時できるかぎりのことをする。

 

あえて面倒そうなことをやる。

 

誰のためでも、自分のためでさえもなく。

 

そこに面倒なことがあればあえて、必死に取り組む。

それだけ。

 

それをやる。

疲れる程

朝早く起き、

運動をして、

人の絶え間ないおしゃべりを聞きながらランチをして、

 

お買い物をして、

本当にぐったりしている。

 

そして、明日は一日PTA。

 

ああ、私は疲れている。

だけど、生きていると感じられる。

 

もっともっと疲れたい。

私は疲れを感じる世界に生きていると感じられるから。

人の柄

働いているといろいろな人と出会う。

 

人柄、という言葉があるが、

よくできた言葉だとつくづく思う。

 

人の柄。まさに。

その人特有の柄がある。

 

ぱっと見では分からない、味のある柄があり、

これでいいのか、的な柄があり、

いいな、と思う柄があり、

ほんとうにそれぞれ柄がある。

 

例え、この柄は苦手だな、と思ったとしても

それはその人の柄なのだから、

そのままに見るしかない。

 

こちらの柄のまま、その人の柄を見るしかない。

その人の柄は変えようがないのだ。

 

私が、こうすればいいのに、こうなってほしい

と思ったり、願ったりしても

人の柄は変わらない。

 

だから、その人の柄が気に入らない時は、

なるほど、このような柄を持った人なのだな、

と少し離れて眺めるのがよさそうだ。

 

面倒くさいことをあえてやるようになって

人との対応も楽しいと思えるようになっている。

 

以前はできるだけ人と会いたくなかったし、

疲れる事もしたくなかったのだけれど。

 

人の柄はそれぞれで、それを眺めるのは

楽しい事だと思う。

アルバイトを始めた

子どもの学校にお金がかかると思い、アルバイトを始めた。

20年ぶり。

良い人ばかりでありがたい。

アルバイトでなんだかライトなのもいい。

 

密かに憧れていた職場なので、嬉しく、

仕事は楽しい。

こんな世界があったのか!と驚く。

 

派手ではないけれど、落ち着いた中にある

人々の柄。

それがとても興味深い。

 

年を重ねてきていろいろ積み重ねると

若い頃とはまた違う見方ができるのかも、と

思った。

 

生きる事に意味はない、と分かったけれど、

面倒なことをする為に生まれてきたのではないか、

と最近強く思う。

 

なぜなら面倒な事はたくさんあるから。

 

これ、アトラクションなのだ。

面倒なことはアトラクション。

面倒でおっくうだが、体験すると確実に満足できる。

 

今自分がやれる面倒なことを

やれるだけやろう、と思っている。