自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


面倒なことはあるけれど

面倒なことを積極的にやるようにしてから

面倒な事が面倒という感じでなくなってきた。

ハードルが下がって、面倒な事に入りやすくなったというか。

 

「面倒」という感じが薄くなっているというか。

何か、とてつもなくジャマな感じだったものがいつの間にか

薄くなって消えかかっているというような。

 

面倒なことだという意識はあるけれど

昔のようにそれに対する感じが違っている。

 

それだからなんだということもないけれど、

面倒くさがりやの私がすこしそうではなくなっている。

 

少しずつ、変われるんだな、と思う。

 

とはいえ、全ての面倒なことが薄くなっているわけではないので

まだまだ積極的に関わろうと思う。

 

例えば、アルバイトでその時面倒と思ったことをやり、

自分がその時できるかぎりのことをする。

 

あえて面倒そうなことをやる。

 

誰のためでも、自分のためでさえもなく。

 

そこに面倒なことがあればあえて、必死に取り組む。

それだけ。

 

それをやる。

疲れる程

朝早く起き、

運動をして、

人の絶え間ないおしゃべりを聞きながらランチをして、

 

お買い物をして、

本当にぐったりしている。

 

そして、明日は一日PTA。

 

ああ、私は疲れている。

だけど、生きていると感じられる。

 

もっともっと疲れたい。

私は疲れを感じる世界に生きていると感じられるから。

人の柄

働いているといろいろな人と出会う。

 

人柄、という言葉があるが、

よくできた言葉だとつくづく思う。

 

人の柄。まさに。

その人特有の柄がある。

 

ぱっと見では分からない、味のある柄があり、

これでいいのか、的な柄があり、

いいな、と思う柄があり、

ほんとうにそれぞれ柄がある。

 

例え、この柄は苦手だな、と思ったとしても

それはその人の柄なのだから、

そのままに見るしかない。

 

こちらの柄のまま、その人の柄を見るしかない。

その人の柄は変えようがないのだ。

 

私が、こうすればいいのに、こうなってほしい

と思ったり、願ったりしても

人の柄は変わらない。

 

だから、その人の柄が気に入らない時は、

なるほど、このような柄を持った人なのだな、

と少し離れて眺めるのがよさそうだ。

 

面倒くさいことをあえてやるようになって

人との対応も楽しいと思えるようになっている。

 

以前はできるだけ人と会いたくなかったし、

疲れる事もしたくなかったのだけれど。

 

人の柄はそれぞれで、それを眺めるのは

楽しい事だと思う。

アルバイトを始めた

子どもの学校にお金がかかると思い、アルバイトを始めた。

20年ぶり。

良い人ばかりでありがたい。

アルバイトでなんだかライトなのもいい。

 

密かに憧れていた職場なので、嬉しく、

仕事は楽しい。

こんな世界があったのか!と驚く。

 

派手ではないけれど、落ち着いた中にある

人々の柄。

それがとても興味深い。

 

年を重ねてきていろいろ積み重ねると

若い頃とはまた違う見方ができるのかも、と

思った。

 

生きる事に意味はない、と分かったけれど、

面倒なことをする為に生まれてきたのではないか、

と最近強く思う。

 

なぜなら面倒な事はたくさんあるから。

 

これ、アトラクションなのだ。

面倒なことはアトラクション。

面倒でおっくうだが、体験すると確実に満足できる。

 

今自分がやれる面倒なことを

やれるだけやろう、と思っている。

面倒なことをしてみたい

この世は夢、幻、なのだったら、

いろいろなことを楽しもうと思った。

 

しばらく珍しくいろいろ忙しく、

ぐったり疲れたのだけれど、

この感じがとても楽しく、

 

うわ〜疲れてる、ほんとにぐったりしている!

とちょっとうれしくなってしまうほどだった。

 

この感じ、いいな、もうちょっと味わってみたいと思った。

 

今日も朝早く起きたので、

午前中寝たい気もしたが、あえて

面倒なことをしてみた。

 

こげついたフライパンのこげを1時間位かけて

ガシガシ金属のフライ返しでこすってみた。

 

あんこを煮てみた。

カーテンを洗ってみた。

炊飯ジャーの水滴がたまる容器を洗ってみた。

 

面倒な事を午前中ずっとやっていた。

でも面倒な事がどこか楽しい。

今までにない感じだ。

 

そして、ただ、銀行に行くだけなのに

昔の映画の女優みたいな格好をしてみた。

 

そしたらいろんな人が道を譲ってくれた。

ちょっとびっくりする。

やっぱり「パッと見」は重要だと確信した。

 

ただ、これも夢、幻なのだろうけれど。

だからこそちょっとあえて、面倒なことをして

面白くしてみたらいいんじゃないかと思った。

どうせ引き寄せるなら

会いたくないな、と思っていたら、今朝会ってしまった。

怒っていたら、どんどん怒るような事が発生した。

 

会いたいと思う人にはあまり会えず、会いたくない人にはよく会うというのは

どういうことだろうか。

気のせいだろうか。

 

いやだ、きらいだ、頭にくる、というような感情はパワーが

鋭く、純粋で、同じようなものを引き寄せるパワーも強いのではないか、と思う。

それで短期間にどんどん同じようなものが引き寄せられてくるのかもしれない。

 

一方、好きとか、いいこととかのパワーはゆるく、分散しているので急激には

引き寄せられないのではないだろうか。

そういうものはゆっくりなんとなく引き寄せられてくるのかもしれない。

 

それが今朝、なんとなく分かった。

 

すぐに引き寄せられるものはきっと単純で鋭いパワー、

いつのまにか引き寄せられているのは複雑でゆるいパワー。

そういうことなんじゃないか、と。

 

イヤだー嫌いー会いたくないーという直球がすぐにその相手を

引き寄せて会う事になったのだ。きっと。

 

じゃ、どうしよう。

 

なるべく複雑にゆるいパワーにかえればいいのだろうか。

いや、そうしたって、結果会ってしまうだろう。

 

わかった。

 

いないものとすればいい。

対象があるから、引き寄せてしまうわけだから。

なければ引き寄せられない。

 

どうせなら自分が引き寄せたい事を思った方が

お得だと思う。

自然の流れ

なんでも自分の感じることは自然なことなので、

それを否定しなくていい。

こうでなくては、などと無理矢理感じなくていい。

 

ただ自然にまかせて流れていく。

それでいいじゃないか、と思う。

 

誰かを好きだったり、嫌いだったり。

好きになってはいけない、とか、

嫌いだなんて思ったらいけない、とか、

そんなことを考えなくてもいい。

 

ただ、好きだな、とか、嫌いだな、とか、

それでいいんじゃないか。

 

それをむりやり、否定して、抑え込んでいたから、

つらかったんじゃないのか。

 

否定して抑えこむのは置いておいて、

ふうん、自分ってそう思うんだあ、と

思おうと思う。

 

そうすると周りの人に対して、

見る目が変わる気がする。

 

〜だから、好き、

〜だから、嫌い、

 

とそれをそのまま、ふうん、とただ思う。

すると、

 

はあ、自分ってそういうところで人を好きになったり

嫌いになったりするんだ。と見えてくる。

 

そして、「ふうん、自分ってそうなんだね!」と

自分に言って終わる。

 

好き、嫌いは自分の中にあって

相手にあるわけじゃない。

 

周りの人は全員白い紙。

自分がいろいろな色を塗っている。

 

そういうことなんだと思う。