自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


面倒なことをしてみたい

この世は夢、幻、なのだったら、

いろいろなことを楽しもうと思った。

 

しばらく珍しくいろいろ忙しく、

ぐったり疲れたのだけれど、

この感じがとても楽しく、

 

うわ〜疲れてる、ほんとにぐったりしている!

とちょっとうれしくなってしまうほどだった。

 

この感じ、いいな、もうちょっと味わってみたいと思った。

 

今日も朝早く起きたので、

午前中寝たい気もしたが、あえて

面倒なことをしてみた。

 

こげついたフライパンのこげを1時間位かけて

ガシガシ金属のフライ返しでこすってみた。

 

あんこを煮てみた。

カーテンを洗ってみた。

炊飯ジャーの水滴がたまる容器を洗ってみた。

 

面倒な事を午前中ずっとやっていた。

でも面倒な事がどこか楽しい。

今までにない感じだ。

 

そして、ただ、銀行に行くだけなのに

昔の映画の女優みたいな格好をしてみた。

 

そしたらいろんな人が道を譲ってくれた。

ちょっとびっくりする。

やっぱり「パッと見」は重要だと確信した。

 

ただ、これも夢、幻なのだろうけれど。

だからこそちょっとあえて、面倒なことをして

面白くしてみたらいいんじゃないかと思った。

どうせ引き寄せるなら

会いたくないな、と思っていたら、今朝会ってしまった。

怒っていたら、どんどん怒るような事が発生した。

 

会いたいと思う人にはあまり会えず、会いたくない人にはよく会うというのは

どういうことだろうか。

気のせいだろうか。

 

いやだ、きらいだ、頭にくる、というような感情はパワーが

鋭く、純粋で、同じようなものを引き寄せるパワーも強いのではないか、と思う。

それで短期間にどんどん同じようなものが引き寄せられてくるのかもしれない。

 

一方、好きとか、いいこととかのパワーはゆるく、分散しているので急激には

引き寄せられないのではないだろうか。

そういうものはゆっくりなんとなく引き寄せられてくるのかもしれない。

 

それが今朝、なんとなく分かった。

 

すぐに引き寄せられるものはきっと単純で鋭いパワー、

いつのまにか引き寄せられているのは複雑でゆるいパワー。

そういうことなんじゃないか、と。

 

イヤだー嫌いー会いたくないーという直球がすぐにその相手を

引き寄せて会う事になったのだ。きっと。

 

じゃ、どうしよう。

 

なるべく複雑にゆるいパワーにかえればいいのだろうか。

いや、そうしたって、結果会ってしまうだろう。

 

わかった。

 

いないものとすればいい。

対象があるから、引き寄せてしまうわけだから。

なければ引き寄せられない。

 

どうせなら自分が引き寄せたい事を思った方が

お得だと思う。

自然の流れ

なんでも自分の感じることは自然なことなので、

それを否定しなくていい。

こうでなくては、などと無理矢理感じなくていい。

 

ただ自然にまかせて流れていく。

それでいいじゃないか、と思う。

 

誰かを好きだったり、嫌いだったり。

好きになってはいけない、とか、

嫌いだなんて思ったらいけない、とか、

そんなことを考えなくてもいい。

 

ただ、好きだな、とか、嫌いだな、とか、

それでいいんじゃないか。

 

それをむりやり、否定して、抑え込んでいたから、

つらかったんじゃないのか。

 

否定して抑えこむのは置いておいて、

ふうん、自分ってそう思うんだあ、と

思おうと思う。

 

そうすると周りの人に対して、

見る目が変わる気がする。

 

〜だから、好き、

〜だから、嫌い、

 

とそれをそのまま、ふうん、とただ思う。

すると、

 

はあ、自分ってそういうところで人を好きになったり

嫌いになったりするんだ。と見えてくる。

 

そして、「ふうん、自分ってそうなんだね!」と

自分に言って終わる。

 

好き、嫌いは自分の中にあって

相手にあるわけじゃない。

 

周りの人は全員白い紙。

自分がいろいろな色を塗っている。

 

そういうことなんだと思う。

なるほどこの世は

この世は夢か幻か、まあ、そういうものだな、とわかった。

でも、寝てみるような夢とは違って道理があり、ちゃんとルールがある。

 

というのは自分がこの世に慣れているから、

それがちゃんとした道理だったり、ルールだったりするのだろうけれど。

 

光が当たれば影ができる、春になると新しい芽が出てくる、

人に何かすると同じようなものが自分にもかえってくる。

 

ハッピーなことだけでなく、

うまくいかない、と思ったことや

自分のイヤな感情、思い、それすらも、

 

この世で味わうためにあるのだと、

最近よくわかった。

 

全ての感情を味わいつくそうとこの世にいるのかも。

だったら、こんな考え方はよくないから、

こう考えようとか、そういうのはなくていいな、と思った。

 

ひきずるイヤな感情が自分の中にあり、

さらにそういう考え方をイヤだ、ダメだ、

と否定する限り、なかなかなくならないのはそういうことなのか。

 

どっぷりそのイヤな感情に浸かって

堪能するのがいい、という気がする。

 

この世は幻、いろんな感情や体験をする

テーマパークみたいなものなのかもしれない。

どうせなら、どーんとかまえて感じたり、体験したりしてみよう、と思った。

 

すると、ふわふわしていた自分の核のようなものが、

おへその下、丹田にすうーっと位置した気がした。

 

肩の力が抜けて、なんでもこい!という気持ちになっている。

自分は自分で、周りがどうとか、もういいじゃないか、

と感じている。

 

どうして、今までそう思えなかったんだろう、

という位その気持ちが普通になっている。

 

とにかく、私は味わいつくすのだ!

楽しいこともそうでないことも。

ハートの聖なる空間を探索4を今読みなおしていて、あっ!と思った。

火災保険の主婦、あれ、やっぱり私だ。

一度、火災保険の更新ですごくなやんでいたっけ。

結構な金額がかかるし、どうしようか、と。

 

ミカエル様、そこへ私を送ったわけだな、とわかった。

意味なんかないんだろうけど。

でも、ちょっとびっくりする。

 

そういえば、手術の件も、流産したときに考えたし。

過去へ送ってたのか。

 

別にいいけど、やっぱりもうそういうのはあんまりだな。

過去の自分にアドバイスしてどうするの、みたいな。

 

意味がないね。

 

へこみから立ち直る

あんなにへこんでいたのに、時間とはありがたい。

立ち直り、普通に生きている。

だんだん、今の状況に慣れている。

 

今、半年前の私に何かアドバイスできるとしたらこうだ。

「勉強しろと怒ったって、本人にヤル気がなきゃしょうがないんだよ」

だ。

それとこうだ。

「本当に部活で学校を選んでいいのか、ちゃんとイメージさせて

話し合った方がいい」

 

部活で高校選びをしたのに、その部活への意欲が無くなっているようだ。

大丈夫なのか。

 

子どもは高校生なんだから、もう、

できるだけ余計な口出ししないでおこうと思っている。

 

勉強だって、しろと言ったって、するなと言ったって、

どっちみち本人の気分次第なのだから。

 

余計な世話をやくより、自分が何かをみつけようと思っている。

へこんでいる今日この頃

子どもの受験が上手くいかず、子どもよりもこっちがへこんだ。

希望校に合格した誰かの話を聞いてはさらにへこみ、

同じように上手くいかなかった誰かの話を聞いてはすこしホッとした。

 

別にたいしたことをしてきた訳じゃないけど、

希望校にいくものだとばかり思っていたから、

滑り止めの学校に行く事になるとは思いもよらなかったのだ。

 

誰かに受験の結果を話す度に気にしてない風な

演技をしてしまっている。

それに自分でうんざりしている。

 

優しい言葉はありがたいけれど、

自分の無力さに愕然としている。

でも、仕方がないこと、終わったこと。

 

人生は思うようにならない。

子どももコントロールできない。

自分だってコントロールしきれていない。

 

ああ、優秀な親戚に話す時がつらいな。

実家に帰ればいろいろああしろこうしろ的な

アドバイスがあるに違いない。

 

子どもには子どもの生きる道というものが

あるに違いないのだから、

そのまま行かせればいいと思う。

 

余計な口出しなどいらないのだろうが、

思わずしてしまう。

ああ、もっと信頼するべきなのに。

 

とかなんとか考えてはグダグダになって

今自分は夢を見ているのかしら、

などと逃避している。

 

母親は笑っていなくてはならない。

辛い修行である。

泣いていられない。

 

一人のときは泣いたりしている。

これは時が解決するしかないと

わかっている。