自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


マハルシさらに注入

こんにちは。

マハルシさんの言葉にうっとりしたので、

さらに注入したく、

こちらを読んでみた。

「静寂の瞬間 ラマナ・マハルシとともに」

ラマナ・マハルシ〔著〕 バーラティ・ミルチャンダニ編

山尾三省訳 福間巖訳 ナチュラルスピリット

いろんな書籍から抜粋されているものが

集められている。

そしてマハルシさん(この本に書いてあったけれど、

マハリシとも発音する言語があるよう)の写真集のように

マハルシさんの写真がたくさんおさめられている。

 

この方がそうなのかあ、としみじみ眺めた。

目力はんぱない。

やはり腰布1枚しか身にまとっていない。

いろんな表情を堪能できる。

ページをめくりながら、思った。

ブッダが生存されていたときに

カメラがあって、撮影されていたとしたら

おそらくこんな風だったんではないのか、と。

なんとなく、そう感じた。

 

さて、肝心の言葉だが、

よくわかるようなわからないような。

とにかく、結局は自分で何とかして

自分が既にもっているものに

気づきなさい。

と、いうことなのか。と。

その気づくもの、真我、なのか、ハートなのか、

神なのか、とにかく芯のところ、

芯もなにもないかもしれないけど、

それは自分にしか気づくことはできないんだな、

と改めて思った。

 

最近、またおかしな感じになっていることに

気づいた。

ずっと前、自分の周りに膜がはっているように

感じていた事があったが、

今度はそれのちがうバージョンになっている。

 

以前は自分の形にぴったりくっついたように感じていたのだが、

今度は私のまわり、数メートル位離れて

スクリーンがはられていて、

そこにバーチャルが存在しているような。

上野だったか、博物館で見た、球体の内側で見る3D映像みたいな。

その球体の外側には何にもない、みたいに感じる。

 

その中での人との関わりも何やらバーチャル的で

映像に映っていない人の事はすっかり忘れていがち。

忘れがちなのが、さらに忘れがち。

以前は誰かと関わる時には面白い事言おうとしていたのに

それが最近ひどく不自然に思えて

(バーチャルだと思っているからなのか)、

言わずに面白くないまじめな人と化している。

でも、別にいいや、みたいな。

 

最近、小顔にしようと骨気(コルギ)というのをやりだした。

どれくらい変わるのか、最初の状態を自撮りしてみた。

その画像をしばらく見ていたら、

「これはいったいだれなんだろう」という気持ちになってきた。

ちょっと死んだ祖母に似ている。

でも、だれなのか。

いや、自分だけれども。

刑事が来て、ふとこの写真を見せて、

「この人しりませんか?」

と聞かれたら、

「いやあ、見た事あるような。でもわからないですね」

とか言ってしまいそうな。

確かに自分の顔なんだけれども。

こんな事言ってたら日が暮れる。

ちょっと面長過ぎなんで、

骨気でキョンキョンみたいな顔の輪郭になればいいな〜*^^*