自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


膜なし、今以外ぼやけた日々

1週間前、昼寝中またもやブンブンと身体の中が振動しだしたので

がんばって抜け出ようと試みたが、ダメだった。

今回は背中の上部の方がブンブンの中心であった。

頭の上から抜け出るといい、という知識があったので、

そこから出ようとしたのだが、ぬけた感じはなかった。

抜け出たのか、夢なのか、分からないけれど

手だけの何かに挟まれて

窓際につれてこられたようで、座っていたら、

誰かの手だけが私に触ろうとするのがイヤだったので

「やめて!」と声を出したら、目が覚めた。

今回も禅の本を読みながらのうたた寝であった。

何か、禅は関係しているのだろうか。

まあ、体外離脱だか幽体離脱だか、

してもしなくてもきっとどうでもいい。

でもできるんだったら、してみたい。

今に生きるというのを意識しだしてからは

神秘的なことがらへの執着があまりなくなった。

だが、そういう風になってからちょっと神秘的な事が

増えたような気がする。

先日もある友人(ひどく気の滅入る)のことがふと浮かび、

ああ、また連絡がきたらいやだなあ、

と思っていたら、翌日電話がきた。

たいしたことではないけれど、

今、これをしていた方がいい、という勘がはたらくようになった。

事前にいろいろ考えずにこれが突然はたらくので

その通りにしている。

そして、結果、それが正しかったと知る。

ああ、そして、

以前に私はまるで自分の周りに膜がはっているようだと

書いていたのだが、

今、膜の感じはなく、

自分自身の何かもまるでまわりにとけこんでいる。

だれもが、どこでもが、初めてでもそうでなくても

前から知っているような、そんな感じがする。

少し前の自分はくっきり際立って存在していたような気がするのに、

ぼやけて存在しているように感じる。

境界線がぼけて背景とまざってしまっているような。

砂の一粒とか、そんなような。

そんななので、性格も少しぼやけた感じになっているような。

今を意識しているせいか、過去未来がぼやけている。

数ヶ月前「わかっちゃった人たち」を読んだとき、

ああ!実際「今」しか存在してないんだ。

と感じて涙が出た。

そして、わたしは、他の皆も、

それぞれのコースを走る神様の乗り物にのっている、

まるで遊園地のコースの上をはしる乗り物、

それをコントロールできるはずのない飾りのハンドルを

力んでにぎり運転しても、行き着く先は変わらないんだ、

何か知らないけど、おまかせでいいんだ!

そう思ったら、初めて肩の力がばーっと抜けて、

笑いがこみあげてきた。

自分がなんとかしよう、何かにならなきゃ、

なんてそんな事考えなくてもいいんだ!

と本当に気持ちが楽になった。

乗り物から見る風景は、

通り過ぎてしまったものに気をとられたり、

これからくるものを考えたりしていたら、

今まさに通りかかったその風景を見ているようで

まったく見ていないことになる。

今を意識すると、まるでほとんど幅のない刃物の先に立っている

というような感覚になってくる。

危うさとか心配という意味ではない、

今という瞬間が細い、というか狭いというか、わずかというか、

そういうものの上に

承知して立っている。というような。

とはいえ、

時々、思わず乗り物の飾りのハンドルを握って

コントロールしようとする事がある。

今の風景を見逃すことだって、やはりある。

でも、「あっ、そうだ」と今に戻ることができる。

だから、どうした?と言われれば、まあ、それまでなんだけど。