自然に流れる

流れるままに記録して、それを遠くから眺めてみたいのです


必死に生きている人を見て

テレビで必死に生きてる人を見た。

自分も必死に生きなくてはと思った。

 

だけど、その人の必死と自分の必死は違う。

私も必死に生きているといえば必死であるし。

 

それぞれ必死なんだけれど、

それが社会的に必死に見えるかどうかで

目立つかそうでないか、っていうだけなのかもしれない。

 

子どもはこのまま遅刻し続ければ来年度進級が危ないと

面談で言われた。

 

子どもは必死なんだろうけれど、よくわからない。

わからないけれど、子どもは必死なのかもしれない。

ゲームには必死だとわかる。

 

私も夫も必死で朝子どもを起こす。

必死でどうしたら遅刻しないで学校にいけるか考える。

ため息をつきながら。

 

どうしようもないこともあるのかもしれないけれど、

とりあえず必死にやってみるしかない。

 

どんな結果だろうとも、あきらめる訳にはいかない。

やるだけやる。

 

そんなこともあってか、またしても現実が遠い。

人生劇場で必死に演じるけれど、

そこになじめていない。

何者でも意味もないからこそ

自分は何者でもなく、人生に何の意味もない、と分かったが、

じゃあ、ヤケになって、あるいは、ぼんやりして過ごそうとは思わない。

 

何者でもなく、意味もない人生というテーマパークで

いろいろな感情というものすごい数のアトラクションを

体験できるのだから。

 

ヤケになったり、ぼんやりしていたらもったいない。

どんどんアトラクションを楽しみたい。

 

なんとかランドが嫌いでも、なんとかランドに連れていかれたら

そこでぼんやりしている場合ではない。楽しむのだ。

元がとれないじゃないか。

 

とりあえず、人生テーマパークでは

すぐ近くのアトラクションを楽しめることになっているようだ。

 

毎日の目の前のことをひたすらやることでそれを楽しめることになる。

一般に楽しいとか嬉しいとか、心地良い感じだけでなく、

苦しい辛い、心地よくない感じのもあるが、

 

それはぐるまぜで選べない。

いや、どこかで自分で選んでるのかもしれない。

 

いいとかわるいとかの区別なく

それを自分の中身が楽しんでいる。

 

自分を楽しませるために私は今日、今、やることを

ひたすらやるのみだ。

 

今はこれをひたすら書く。

さっきはテーブルをひたすら拭いた。

昨日はPTAの活動をひたすらやった。

 

建設現場で作業する人がひたすら作業している。

散歩する人がひたすら歩いている。

話をしている人たちがひたすら話している。

 

それぞれのアトラクションをそれぞれ楽しんでいる。

 

寝る時は、ひたすら寝ればいいのだし、

時に怠けたければひたすら怠ければいい。

毎瞬、必ず人生劇場においてやることがあって、それをやることなのだ。

 

アトラクションは数限りなく、次々現れる。

 

それが今を生きるということなんだと思うし、

実際そうすることしかできない、と思う。

イヤな感情を味わう

本日はまたイヤな感情と出会った。

ああ、これ、よく出会ってたね。

 

自分が正しいと思ってしたことを完全否定されるという。

そして、何故否定されたのかわからないっていう。

 

だから相手のことを疑い、嫌悪し、

どうしてわからないんだ?と毒づいて、

気持ち悪くなる。

 

なんて刺激的な感情なんだろう。

この、胸が悪くなる感じ。

 

周りがキューっと縮んでいくような、

耳がキーンとなるような。

 

ああ、私はそんないつもとは違う感情を味わっているのだ。

こんな気分はそう滅多にない。

なろうと思ってもなれるもんじゃない。

 

そう考えるとお化け屋敷のお化け役の人に

感謝するような気持ちになる。

 

わざわざ私をこんなに胸くそ悪くさせてくれて。

感謝だなあ。ふふふ。

日常が刺激的

初めはたどたどしくても、何度かやるうちに慣れて、

まるで、ずっとそれをやっているかのようになる。

 

なんでもそう。

仕事でも習い事でも

子育てでも、なんでも。

 

慣れるとそれをやるのが普通になってくる。

 

人生劇場の自分の役もそうなのだ。

まるで普通に自分だという風を演じている。

 

自分は何者でもないのに、

その時に与えられた役をやっている。

 

私は今は妻で母で、時々仕事をしている。

それを毎日演じている。

演じているとはわからないくらい自然に。

 

ある日、昼寝から覚めた時、一瞬自分が何者か分からなかった。

次の瞬間、「ああ、私は○○のお母さんで、…」と自分の状態を認識した。

 

その時、自分は何者でもないと思った。

 

だから時々現実に触れていないような気持ちになるんだろう。

 

人の話を聞くとき、映画でも見ているような

気持ちになる。

 

家族7人の晩ご飯の支度を1人で2時間かけてやるだとか、

遠くの整骨院まで行って治療をするだとか、

大人になってから注射を打ったことがないだとか、

一人で京都旅行へ行くだとか、

そんな、自分が演じない話を聞くのは面白い。

 

そして、そういうことが刺激的に感じる。

その人には日常なのだろうけど、私には刺激的である。

 

いろんな人が毎日それぞれ刺激的な役目を演じている。

面白い。

映画とかの刺激もいいけど

映画を見た。

刺激的でうわーっとその時は満足したような気がした。

のだけれど。。。

 

近頃、映画というものにあまり興味がない。

 

生きているその事自体がもう映画とか演劇みたいなものと

思っているので、

さらに、その中で作られた劇中劇にあまり惹かれなくなってしまった。

 

そして、何か見終わった後で感じる消化不良みたいなものとか、

吐き気とか、そういうのが嫌だ。

 

だからなるべく見ないようにしている。

 

話題の映画だったのので、見ちゃったけど。

やっぱり胸の奥が気持ち悪い。

 

見なくてもいい、刺激的な

暴力とか、エロとか、グロとか、

そういうのが胸の奥に澱みたいに残って気持ち悪くなる。

 

普通に生きていることが刺激なのだから、

私は別に見なくていい、と思っている。

ギラギラしていたはずだったのに

いつのまにか、ギラギラ感がどこかへ。

若くはなくなったのか、なんなのか。

 

なんというか、スイッチが別に入っているというのか、

ああ、周波数が変わったのか。

 

ラジオで違う局に変えたような。

お気に入りだったはずがもう過去になり、

新しい局に合わせているというような。

 

それはとても自然でいつのまにか行われた。

 

若い頃のギラギラ感が懐かしい。

でも、もうそれは充分堪能したので、もういいかな。

 

私はやはり現実にタッチしないまま生きている。

人と話す時、もう、ギラギラしなくてもいいようなそんな気持ちで

相手にギラギラしていることを知らしめなくてもいいんだという、

 

もうそんな…無機質な、

相手が他人でありながらも、自分でもあるような、

ほんとうに浮いている。

 

浮きながらくるくると回転できる、

無重力状態で

今日も「そうなんですかあー」と相づちを打つ。

 

しばらくこんな感じが続いており、

時々は波立つこともあるけれど、

でも海面だけで、やはり中では無重力で浮いている。

 

眠っているのだろうか、それとも目覚めているのだろうか?

味わいつくしたら終了

イヤな気分。

同じ事を何度も聞かれて。

ヒマなのかなんなのかしらないけど、もううんざり!

 

という午前中。

 

これって。

 

この世に生まれてきたのはいろんな感情をアトラクションのように

体験するためだとしたら。

 

このイヤな感情も味わいたかったのだ。

でも、アトラクションということをすっかり忘れて、

ただ、イヤだと反応してしまった。

 

夫は運転中、いつも驚く程イライラすることに

出会う。

そして、そのイライラすることにいちいち反応している。

 

これは反応であって、味わっていない。

一度自分の中に入れて味わうことをしなくては。

 

そうしないと

味わっていない=体験が終わらない

ということになり、

 

いつまでたってもその体験は終了しない。

アトラクションは続くのだ。

 

もしも、そのイヤな体験をしたくなければ、

反応して反発するのでなく、

一度自分の中で味わうことだ。

 

味わって、こんな感情がこの世にあるのだと

感じて喜びさえもわき上がるほどでなければ

きっと終了しない。

 

そう考え直し、

午前中、私はイヤな気持ちを堪能するようつとめた。

 

なんだ、たいしたことでもない。

そんな気持ちになっている。

 

終了したか分からないが、

同じ事ではあれほどまでにイヤだと思うこともないだろう。